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第五筑波隊 町田道教少尉

 

 ​九州帝国大学農学部卒、第14期飛行予備学生、昭和20年5月11日第五筑波隊員として鹿屋基地を発進し、沖縄周辺機動部隊索敵中散華。任海軍大尉。

【町田少尉の手紙】

 昭和20年5月鹿屋基地からの書簡

 新緑したたる晩春の鹿屋基地は今、春雨にそぼ濡れて、ぼんやりと煙っている。さすがに第一線とて、全てが騒然としている中にも活気がある。B29は毎日来襲し、爆弾を投下してゆく。時限爆弾が時々破裂している。南国九州の春は長けて、燕が煙の中を飛び回っている。時々破れたガラス窓から、部屋の中に飛び込んでくる。

 遠くの蓮華草畑は紫色にかすみ、咲きのこりの菜の花がわびしげに、あせた色を見せている。矢車草は庭前に、雑然と咲き乱れている。雨の日の退屈をまぎらわす煙草の煙が、くすぐったく若緑にまつわっている。我が命も明日か明後日で終わりである。しかしちっとも切迫した気持ちはない。日常通りに読んだり、笑ったり、ふざけたりしている。

 しいじみと詩を吟ずれば、幼き頃の故郷の面影がなつかしく思い出されて、ひとしお母上のことが考えられる。ただ我等子供のために、その一生を送って来られた父母のことを考えれば、今更ながら有難さに涙があふれて来る。父は遂に、俺の卒業や軍服姿を見ずに亡くなられた。頭はありながら経歴がないために、あたら一介の僧として終わった父を思う時、なお一層父の心中が察せられて、ない金を無理して学校に出して下さったその御恩が、しみじみ有難く感じられる。苦労して苦労しきった母上を安心さすこともできずに散っていくことは深い心残りではあるが、皇国のために男らしく散ったことに対して許して下さるであろう。幼き頃よく母の寝物語を聞いて涙を流した俺も、今は何事にも心の動かない枯れた人間になってしまった。時には我ながら涙の出ぬことが、うらめしいことがある。思い切り感激したり、涙を流したりし得たら、さっぱりしてよいかも知れないと思う。しかし、九州人の常として一切の感情を、押し殺すように教育されて来た俺は、その通りに成長したが、また一面それがうらめしいような感じがする。「夢」という小説にも書いた通り、悲しみに浸り得ない寂しさがある。逆境に溺れ得ないうらめしさがある。しかも今となってもがいたところで、どうにもなるものではない。26年間の教育が遂に実を結んで、かくの如くなったのである。何もやたらに涙を流したり、感動したりすることを欲するのではないが、強い一面、涙もろいところもあって差し支えないのではないかというような気がするのである。

 それはともあれ、五月雨めいた小ぬか雨は、今日も降り続いている。古い小学校の校庭の紅葉の若葉が、雨に濡れて鮮やかな緑を見せている。八つ手の若葉は、雨垂れに破れそうにゆれている。皆、語り疲れたのか毛布をかけて寝ている。二つ三つ先の教室から、わびしいオルガンの音が聞こえてくる。兵舎に当てられた古い校舎の屋根から、時々ぼたぼたと雨もりがして来る。全く福岡の五月を思い出す。雨戸がしめられて、明り取りのために一枚あけられ、その近くで母はよく縫物をしておられた。俺たちは所在なさに、何か食物をねだっていたものだ。そのうち、きっと母は、何かこさえて下さったものだ。ああ、幼い時の思い出は、実に遠いものになってしまっている。

 弟泰教は、今頃どうしているであろう。やはり北支にいるか知らん。一度、あれの軍服姿を見たいな。そして、一緒に母上と歩いて見たいような気がする。母上を安心さしてあげたいという望みは、もうなくなってしまった。我等のために苦労して来られた母上に、その報いもせず、老後の楽しみも見せず、散りゆくのは残念である。この俺と泰教の望みを達成してくれるのは弟正教である。素直に、元気で大きくなってくれることを、ひたすら望む。父の意志を貫徹してくれるよう祈っている。

 お母さん、私が散った後は、正教にたのんでやって下さい。平和な楽な家に住んでやって下さい。この戦において、必ず敵を撃滅させるのですから。

 それから若い盛りの綾子にも、大分苦労をかけました。化粧もせず、着物もきず、ただ家のために働いてくれるのを思うと、まったく頭が下がります。よいお婿さんを見つけてやって下さい。サエ子ちゃんも、素直に、よい子になるようお願い致します。

 私も、靖国神社から、それを祈っております。泰教もまた、何とも言えぬ体です。彼もやはり、私と同じ考えでしょう。

 決して、お悲しみにならぬよう、私は母上が、喜ばれるのが、うれしいのですから、大いにほめてやって下さい。

 くれぐれもお体を大切のほど祈ります。さようなら。

 お母上様

 

 参考文献 
『青春の証 筑波海軍航空隊』友部町教育委員会生涯学習課

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