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筑波海軍航空隊跡の現状

                                                川上 定俊

1 はじめに

 終戦直後,旧軍用地はGHQにより接収されたが,戦後数年を経るごとに,学校,医療施設などへの転用を目的として,順次大蔵省各財務局経由で国,都道府県,市区町村や民間などに払い下げられた。1950(昭和25)年5月,筑波海軍航空隊跡地のうち,北東半分の,本部,居住区跡は,茨城県立内原精神病院として,大蔵省関東財務局から払い下げを受けた。その後1960(昭和35)年8月に茨城県立友部病院となり,現在では病床数589,職員数262人,診療科目は精神科,神経科の病院として機能している。

 なお,南西側の一部はGHQ,大蔵省を経て旧運輸省に移管され,現在は国土交通省東京航空局友部航空無線通信所(職員3名)となっており,その他の土地は地元住民に払い下げられ田畑地,住宅地となった他,滑走路跡は現在公道として機能している。

 

2 筑波海軍航空隊跡の概要

 筑波海軍航空隊跡のうち,司令部庁舎,滑走路跡については,現在茨城県笠間市旭町地内に所在し,付属施設として実弾射撃試験場跡は同市平町字星山地内,地下戦闘指揮所跡は同市矢野下,航空無蓋掩体壕7基が同市矢野下,住吉周辺に散在している。また,平成11年に慰霊碑が同市旭町に,筑波海軍航空隊記念会により建立されている。

(1)司令部庁舎跡周辺

 筑波海軍航空隊司令部庁舎(同市旭町654番地)は,1938(昭和13)年頃,それまでの木造庁舎から鉄筋コンクリート製2階建に建て替えられ,1950(昭和25)年以降,茨城県立友部病院本部事務棟として使用されている。司令部庁舎内部は部屋割が変更されたこと,電気等保守設備が新設されたこと以外は当時のままであり,庁舎裏には池も残る。

 付属構造物として正門と号令台が残るほか,敷地内の道路,池,練兵場については筑波空当時の区画をそのまま流用している。また,現存しない「神風舎」という特攻隊員専用宿舎から司令部庁舎までの道には桜が十数本並んでおり,これは筑波空当時から存在したものである。なお,筑波空当時,敷地内に「筑波神社」が存在していたが,これは終戦直後,同基地が特攻隊出撃基地であったことから,地元住民がGHQによる処罰を恐れて取り壊してしまったとのことであり,現在は礎石の一部が残るのみである。

 一方,南西側に隣接する国土交通省友部航空無線通信所敷地内は滑走路基点,エプロン,格納庫群が所在していた。ここへの立ち入りは許可が下りず,友部病院側から確認するのみであったが,当時10基存在した格納庫群の礎石は確認できた。格納庫群,エプロン周辺は戦後しばらくはそのまま放置され,近隣の子どもたちの遊び場となっていたが,その後昭和30年代までには水戸方面の体育館建設資材として流用,解体されたとのことである。

 慰霊碑は1999(平成11)年6月3日,筑波空記念会有志が設立した筑波海軍航空隊記念碑準備会が,旭町在住橋本二朗氏の敷地提供を受け,滑走路跡隣接地に建立されている。

(2)滑走路跡

 筑波空の滑走路は元来舗装されず,広大な草地が広がるだけであったが,1944(昭和19)年7月,中野司令はコンクリートの簡易舗装を実施した。現在公道として機能しているものは,この時簡易舗装されたもので,東西方向(600m×30m)と南西北東方向(610m×40m)の2本が,幅員のみ縮小した形で転用されている。

(3)地下戦闘指揮所跡

 1945(昭和20)年2月以降,筑波空周辺も空襲を受けたことから,戦闘指揮所を新設の地下壕に移転することになった。地下壕跡は司令部庁舎の南約1kmに設置され,地下22mに掘り下げた半地下式,鉄筋コンクリート製であり,完成後土盛りをしたものである。規模は東西30m,南北12m,高さは内部2m,土盛りを含めた外部4mの一部突出したカマボコ型を呈し,内部には合計6部屋ある。突出部には土台跡が確認され,通信機器,発電機器が運び込まれたものと考えられる。各室にはケーブル孔が認められ,南北に4か所の出入口がある。堅牢なため,現在でも原形を留めているが,保存処理はなされていない。

(4)航空無蓋掩体壕跡

 地下戦闘指揮所が新設された時期,航空機自体の被害を防ぐため,航空無蓋掩体壕が複数設置された。現在把握されているだけで7基あり,実数は10数基であったと考えられる。所在は滑走路,地下戦闘指揮所の南西側,北関東自動車道に沿った平坦な雑木林に分布しており,滑走路まで1km以上の直線距離がある。筑波空の場合航空有蓋掩体壕の存在は確認されておらず,聞き取り調査からも証言は得られなかった。

(5)実弾射撃試験場跡

 実弾射撃試験場は太平洋戦争開始以降に,筑波空司令部庁舎跡から西北西に直線距離約4kmの地点,県道稲田友部線から南へ230m入った,現在の北関東自動車道友部インターチェンジ付近,涸沼川に沿って南北約325m×東西約115mで,東側は土塁が築かれ,西側は涸沼川となっている。射撃位置は南側で,北に向かって280mと180mが標的となっていた。標的の背後は壕となり,その奥は砂地,山林と続いた。射撃位置は茨城県企業局涸沼川取水場となっている。戦後,試験場跡地全体が一括して満州からの帰国者(星山開拓農場,細田氏)1軒に対して払い下げられたこともあり,形態はよく保存されている。また細田氏の現在の家屋は,射撃試験場標的用構造物の上に建てられており,同家屋の地下室は標的用構造物をそのまま転用している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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波空跡地概要図(上図)と図中の数字は下記を表す

1.筑波海軍航空隊本部庁舎(現茨城県立友部病院事務棟)   

2.号令台    

3.航空隊正門(現茨城県立友部病院正門)

4.筑波神社跡      

5.滑走路跡      

6.滑走路跡      

7.滑走路跡

8.滑走路跡突端(現ガソリンスタンド)

司令部庁舎外観

司令部庁舎内部中央階段

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地下戦闘指揮所外観

実弾射撃試験場現況

〔東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻 修士〕

※本稿の内容は、2004年(平成16年)当時の状況です。

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