昭和4年6月1日、横須賀海兵団に入団し、4等機関兵として海軍の生活が始まりました。最初に困ったことはほとんど泳げないことでした。水泳は戦艦勤務に欠かせない必須条件でした。海兵団では、泳げる者も泳げない者も、ボートから海中に一勢に飛び込めの号令で飛び込みます。連日水泳の猛訓練のお陰で、6カ月の海兵団卒業の時には、3000メートルの遠泳に合格できました。それからは、海は我が家の庭のような感じで、泳ぎが楽しくなりました。
次に大変だったことは、機関兵として真夏30度をこす暑さの中で、練兵場の真ん中でスコップで石炭をボイラーにくべる訓練でした。2、3分スコップを振るうと、汗がスコップにたまるほど出ます。
猛訓練に耐えて、軍艦五十鈴の乗組員になり、南支那沿岸警備にあたりました。ほどなくして、横須賀の工機学校に入校し、電気術を専修しました。卒業後、掌電気兵として勤務し、南洋諸島をまわって無線用の発電機の設置にあたりました。
昭和9年4月に霞ヶ浦海軍航空隊配属となり、友部分遣隊の設立と同時に転勤してきました。南山内村手越(現笠間市)の出身でしたので、分隊長が特に指名してくれたのでしょう。分遣隊では兵舎の掃除、配電関係の調査、揚水ポンプ電源、ポンプの運転等にあたりました。
開隊当時の分遣隊は、格納庫が3棟で、操縦練習機が20機ほどで、140、150名が勤務していました。搭乗練習生は40、50名いたと思います。飛行機が珍しい時代で、福島、栃木方面からの見物人も多かったようです。飛行場のまわりは松林でした。
昭和12年7月に日支事変が起こりますと搭乗訓練にも熱が入ってきたようです。古賀さんも中国戦線へ征かれました。
同年11月に軍艦長門に勤務になり、姫路(第10師団)や善通寺師団(第11師団)の輸送にあたりました。善通寺師団(香川県)は、ウースン上陸にかなりの犠牲が出ました。
昭和14年4月からは、駆逐艦野風常務となり、大湊基地に移動しました。任務は北洋漁業の警備でした。当時はサケ、マス、カニが豊漁でした。私ども警備の兵も網を借りてサケ、マスを獲りました。
昭和18年8月には、アッツ島が玉砕し、キスカ島の引き上げに駆逐艦であたりました。アメリカ軍の猛攻撃を避けながら、霧の中を駆逐艦でキスカ島に入り、2時間ほどで引き上げを完了しました。食料は潜水艦でキスカ沖へ運びました。
昭和19年6月からは通信学校で電気の新兵教育にあたりました。発電機の修理のため、松輪島に漁船で渡ったりもしました。
昭和20年6月に中千島から大湊基地へ引き上げ、内地防衛にあたることになり、そのまま8月15日に終戦を迎えました。大湊基地も占領軍の管轄となりました。最初のうちは軍人は捕虜となり強制連行されるとか婦女子は乱暴されるとか恐れていましたが、アメリカ兵が来てその心配は全く杞憂でした。昨日の敵は今日の友でした。ただ、軍刀は全て没収され、破壊され、弾薬は海に投棄されました。終戦から10月末日まで残務整理にあたり、11月になって郷里に帰ることができました。
友部の航空隊後に記念碑ができましたことは、まことに喜ばしいことです。戦死された方々の霊に謹んで哀悼の意を表します。
(海軍少尉、友部町在住)
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課