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 常磐線友部駅で下車し、駅前の広い道路を南へ自動車で約10分も走れば、筑波空の正門に到着する。街を外れると航空隊までは雑木林や栗林で人通りも閑散で、たまに出会う自動車はもうもうと砂塵を上げて突っ走っていく。いかにも田舎へ来たなァという感じである。

 昭和16年頃には、筑波空の練習生教育もようやく軌道に乗っており、司令は玉井浅一中佐、分隊長は日名子留吉特務大尉(操練1期生、わが海軍飛行機草創時代の操縦員)で、白髪といいたいが、頭髪は全くないツルツル頭で、背は高く、小太りした体躯は分隊長の貫禄十分であった。分隊士は森山飛曹長で、私はその下の先任教員を命じられた。飛行分隊は甲種予科練分隊と、丙種飛行練習生分隊に分かれており、私の分隊は甲種予科練分隊であった。練習生30数名に教員は私以下9名で、戦闘機出身は私と角田和男上飛曹だけで、他は艦爆、艦攻の出身者であった。私はいつもの無精髭を生やしていたので、練習生にはいかつい親爺に見えたであろうが、彼らは教員の経歴から性格、家族構成まで詳細に研究していた。教員では私が一番先輩で、次席教員は角田、冠谷上飛曹で、私より2年後輩の乙種5期予科練の出身であった。

 当時内地で報道される戦況は、華中方面の零戦部隊の活躍がいつもトップで、一段と大きく扱われていた。私の戦地での活躍は再三新聞報道されていたし、とりわけ成都敵前着陸の武勇は、彼らを驚嘆させていた。

 この頃の練習機は三式初歩練習機、および九三式中間練習機で、どちらも複操縦席で、三式初練は教員が前席で、九三式中練は後席になっていた。操縦桿、フットバー、スロットルレバーとも前後席連動で、練習生の操縦が教員の操縦に似るのも当然で、性格まで似ると言われた。教員1人に練習生4人ずつが配置されたが、数が端数だったので、先任教員で戦地帰りでもあった私だけが3人受け持ちになった。

 毎日の飛行訓練は練習生1人20分ぐらいであったが、私のところはいつも時間オーバーとなり、分隊長から「先任教員は戦地帰りでもあるし、他の練習生との均衡もあるので、のんびりやってもらいたい」と、私のはやる行動にブレーキがかけられた。だが練習生の成績は検定のつど順位が決まるので、必然的に気合が入り、分隊長の注意を無視してしまう。練習生の飛行時間はいつも私のところが多く、いつの検定でも、私の組はそろって成績が良かった。特殊飛行検定終了後の反省会でこのことが指摘され、子弟に対する情熱も愛情もしぼんでしまい、しばらく自重することにした。

 この頃の練習生教育の厳格さ、特に体罰は苛酷で、私たちの頃の比ではなかった。戦争が長期化し、国際間の逼迫と非常事態がそうさせたのかもしれないが、それより2,3の教員の性格とスパルタ教育が、体内の風紀を作っていた。飛行機の操縦は午前中の限られた時間で、それぞれ担任教員から教えられるが、その後の日課は当日の日直教員の指揮命令によって行われた。

 友部といえば常磐線を下って水戸駅の3つ手前で、飛行場を東に向かって離陸し、高度200~300メートルになると、無数の丸い大きな屋根が眼下に広がってくる。これが戦前、かつて加藤完治先生が、満蒙開拓義勇軍を養成した内原訓練所である。私たち筑波航空隊員も一度は先生の講義をきかされ、玉井司令は誰よりも先生を尊敬していた。

 筑波おろしの吹きすさぶ一年中で一番寒い1月は、寒稽古として操縦教員も、強制的に弓道を教えられ、朝早くから下着一枚で汗をかくまで、何十回となく弓を引かされた。飛行機乗りは強靱な体躯と、精神統一が必要であるとして、終わってからも長時間座禅を組まされ、お陰で寒稽古終了と同時に弓道初段が授与された。

 一年一日の如く、相手は変わっても毎日変化のない飛行作業、何年も教員生活をしていれば、一度は戦地に出たくなる気持ちも十分推察できた。

 昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争がはじまり、内地は初戦の大勝に歓喜していたが、練習生教員は一段と厳しく、ますます多忙となっていった。私はまだ10ヶ月足らずの教員生活に未練は残ったが、昭和17年4月1日、飛行兵曹長任官と同時に、准士官学生を命じられ、筑波航空隊を退隊した。

『大空の決戦 零戦搭乗員空戦録』文春文庫より抜粋。羽切松雄氏は、昭和7年海兵団に入団、「摩耶」、「蒼龍」勤務ののち、第12航空隊の一員として日中戦争に参加。昭和16年7月23日より17年4月1日まで、筑波海軍航空隊で教員を務めました。

                 
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

筑波海軍航空隊付、教員生活

羽切松雄

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