市原米吉 特務少尉
宍戸町南小泉(現笠間市)出身の市原米吉少尉は、昭和12年1月から13年1月まで霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊の教員でした。昭和17年3月22日、大湊海軍航空隊より索敵に出動し、未帰還となり、4月22日戦死の公報が届きました。遺書は、昭和12年9月22日に書かれていました。
【市原米吉特務少尉の遺書】
今更こと新しく遺書を書き残すこともなく、すべての事は、生前たびたびお前に話してあ
るとおりに実行すればよい。
軍人一たび戦地に至りては「義は山岳より重く、死は鴻毛より軽し」「死」は当然のこと。
出来得るなら、第一等国との戦闘に華々しく戦って戦死したい。が支那の弾丸でも当たれ
ば戦死は当然のこと。
今まで当地よりの何回かの通信で、僕の戦闘振りは少なからず分かったことだろう。既に
何回かの危険な生死の境は越えて来た。
この事変は今後いつまで続くか知らんが、誰か生ある凱旋を保障できるや。
後で「虫が知らすか死を悟った」といわれるは心もとないが、あえてこれを書き残すこと
にした。
僕の戦死で、当然お前は寡婦になる。
初めのうちは世間の人の好奇な目で同情も集まるだろう。が、事変も治まり世が再び平和
になれば「喉元過ぐれば熱さを忘る」は人の世の常だ。
いろいろな方面の誘惑もあるだろうが、今からはお前の身体は僕と二人分だ。確固たる精神、強い信念、偉大なる母性愛をもって世の荒波を乗り切り、子どもを養育せねばならぬ。
要するに、世間の誘惑に打ち勝ち、強い女、強い母になり、裕子を立派に養育してくれ。どんなことがあっても人から笑われぬ、あたり前の生活を続け、裕子の養育は立派にしてくれ。
あれがかっての上海空中戦の勇士の遺族の生活振りだ、などと指さされぬように頼む。これは一に君の心がけによるものだ。よくよくこの際自覚して、いつまでも忘れぬようにしてくれ。
父は何といおうと僕の希望として、百姓のできぬお前が家人と共に同居することは賛成できぬ。
ほかに借家なり適当なところへ家を建てるなりして、分家してくれ。
お前はまだ20歳の身空で子供を抱えて世の荒波を渡るのは事実むずかしい事だ。普通、世の人は娘盛りで苦労も知らずに親下にあるのに、寡婦生活は実に気の毒だ。
適当な人があれば再婚するのも止むを得んだろう。
が、人の心には裏表がある。上辺ばかりに惑わされぬよう十分注意したがよいと思う。
今まで、自分は何もしてやることができなかったが、少なくとも結婚生活2年間は、できるだけの愛情と好意を捧げ、幸福な生活をさせたつもりだ。
それ故、他人にお前の泣きを見せるようなことはさせたくないと思う。充分と注意してくれ。
世間に馴れたとはいえ、まだまだお前は世間を見る目がないと思う。注意が肝心だ!!
もし再婚するにしても、お前が他に嫁ぐようなことはせず、私の姓を裕子により伝えてくれ。
戦死による賜金並びに家族扶助料は、若干下賜さるることと思うが「座して喰らえば山をも崩す」たとえだ。何なりと自己の才能に適した職業を見つけるなり、内職をするなりして地味なまじめな生活をしてくれ。
親も老境に入り仕事も出来ぬことになり、妹達も年頃だから結婚費用の一助位は親父に出してやってくれ。
今から収入のないお前にこんなことは言い難いが、家のことも考えればわずか位は仕方ないだろう。
これが最後と思えばいろいろ書き遺したいが、もうみな言わんとするところは簡単ながらしたためたつもりだ。
身体は一代財産だ。くれぐれも健康に注意して暮らしてくれ。 さようなら。
昭和12年9月22日 市原 米吉
つや子殿
【六十年越しの宿題 市原裕子】
母がこの世を去って今年で17年、6月に17回忌の法要を行いました。
24歳で戦争未亡人となり、戦後の荒波の中、父に託された3人の娘たちを必死で育て
上げ、それぞれ人並みの結婚をさせ、7人の孫に恵まれ、幸せな老後を送っているとい
われていた母が亡くなったのは67歳でした。
四十九日の法要が終わって、父の遺影と並んだ母のそれは、あまりにも痛ましく、溢
れる涙を拭っているうちに、幼児の頃から声を立てて泣いたことのない自分が、いつ
か、しゃくり上げていることに気づき、周章てたのを覚えています。
いつの日か、父と母の生きた証を一冊に纏めようと思い立ったのはその時でした。
この7月末、「筑波海軍航空隊特別展」への出品要請を受けた折に、父から母宛ての
書簡の束を、斜に読み返してみました。
昭和12年9月22日に認め「艶子殿」と上書きされた封書は、24歳の父が19歳の母に2歳
の娘を託す遺書です。
便箋5枚に、構えたふうのない細かな文字で書かれたもので、読み進むうちに、ことある毎に、母が父のことを誇らし気に、子供達に語っていたのを思い出しました。
冷静で思慮深く、先見の明があり、妻子、親兄弟に対する愛情と思いやりに溢れた遺書の凄さに、ただただ頭が下がりました。
父の心情を想い、読んだ母の覚悟を想い、遺言を書いた時の父の年齢を有に二倍も越えた自分が、父の足元にも及ばない気がして、妙に恥ずかしくなりました。
母が父のもとへ去ったときの年齢にあと2年となった今、手許に預かっている40通あまりの書簡だけでも形にしてみようと、父の生涯を縦糸に、年表づくりを始めたところです。
筑波海軍航空隊特別展は、私にいい切っ掛けをくれたと感謝しております。