筑波航空隊は、茨城県の友部に在り、大分から移転してきた戦闘機の練習航空隊であった。当時、最後のクラスともいうべき海軍兵学校出身の第41、第42期飛行学生と、第13期及び第14期飛行予備学生にたいする教育が行われていた。それは、戦況の緊迫とともに、まったく火の出るような急速錬成であった。
しかし、この若いパイロット達が訓練にはげんでいる間にも、太平洋各地での敗戦は、しだいに内地の基地を第一線化せざるを得ない状態に追い込まれつつあったのである。戦局は正に重大な局面を迎え、敵の機動部隊が、わが本土にたいして空襲をかけてくると同時に、B29の来襲が激しくなってきた。当時、筑波基地には、滑走路らしいものはなく、荒れた芝生では離着陸にも困難をきたすことが多かった。
中央に上申しても、作業員に余力がなく、自隊でやるならば許可するとのことだった。中野司令は決心され、いよいよ自分たちの手で滑走路をつくることになった。幸いにも、補充兵の中にはりっぱな建築技師もおり、技術者もたくさんいた。この技術者たちを指導員として、その年の9月ごろから、緊急工事として、滑走路の造成に着手したのである。その間、飛行機隊は、三沢、霞ヶ浦などに移動して、そこで一日も休まずに訓練がつづけられた。
こうして12月には、りっぱな滑走路ができあがった。しかし、せっかく滑走路ができあがっても、そのころには戦況はますます不利になり、筑波上空にもグラマンが姿を現すようになった。
こんどは、飛行機を分散するための誘導路の造成と偽装迷彩が必要になってきた。飛行場周辺にいくつもの誘導路が造られ、空襲警報が発せられると待機戦闘機以外は、ここに引き込まれるのである。
偽装については、この地方に多くあった竹を利用し、完全に空中からは飛行機の発見を防ぐことができた。
また、もう一つ、この筑波基地に残した大きなものがあった。それは、やはり自分たちの手で材料を集めてきて、木製のB29の模型を、それも同型、同大のものを飛行場の片隅につくったことである。これには二つの目的があった。訓練用としては、B29にたいする接敵距離と、目標の見え具合のカンを養うことであり、もう一つは、来襲する敵機の銃撃の目標としての敵の銃弾を吸収することであった。果せるかな敵機は、数回の来襲に、この模型に銃撃を浴びせ、わが方の飛行機その他の被害を軽減することに役立った。
そのほか、横穴掘りが地上勤務員の毎日の仕事となった。小高い丘の下に横穴を掘り、木材で枠をつくって隧道とし、その中に燃料その他を貯蔵するのである。また、庁舎の前には、りっぱな地下壕をつくり、戦闘指揮所とすることも忘れなかった。要するに、われわれが前線でやってきたことを、そのまま内地の基地ではじめたのである。
これより先、私はラバウルでの経験から、自給自足の一端として、イモつくりもはじめていた。近くの内原には、満蒙開拓団の本拠があり、ここから種いもをゆずりうけて、またその技術指導もうけて、飛行場周辺の直接飛行に関係のない地域に栽培したのである。すでに主食は、二割節減の状態で、備蓄用として天引きして貯えられ、空腹を訴える隊員たちには、このイモが大いに役立ったのであった。
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課
『あゝ零戦一代』横山保