筑波の空にひびけ若き爆音
マリアナ沖海戦が全面的な失敗に終わったのは昭和19年6月であった。その後、フィリピン方面の防備強化のため、今までそこにあった航空部隊の再編成が行われた。そして戦闘機隊は、私が司令だった第201航空隊に全てを統合し、内地からも補充されて、総数192機という大航空隊となった。
このため司令以下の幹部もほとんどの者が交代することとなって、私も先輩の山本栄大佐にあとを引き継ぎ、内地に転勤することになった。松島で再編成して、ラバウル→ブイン→ブカ→ラバウル→サイパン→ペリリュー→セブと転戦してきたが、これで苦労をともにしてきた部下たちと心ならずも別れを告げなければならなくなったのである。こうして転勤した先は筑波航空隊であった。
当時、筑波航空隊は、戦闘機の練習航空隊だったが、筑波が戦闘機の練習航空隊になったのは、その年の3月からである。
それまで、戦闘機の練習航空隊は、大分航空隊だったが、3月に作戦専用の基地となり、大分の戦闘機練習
【ゼロとの奇しきめぐり逢い】
中野忠二郎
中野忠二郎司令 大橋佐知子氏提供
部隊は筑波に移されたのである。私は、第201航空隊司令に赴任する前の1年間、大分空の副長だったので、まあいわば、古巣へと戻ってきたようなものだった。そのころ、練習航空隊で使用している練習用戦闘機と言えば、大分空の時はまだ96戦(96式艦上戦闘機)がほとんどで、零戦はほんの数機にしか過ぎなかった。ところが7月22日セブを出発して、27日筑波空に着任してみると、練習機はすべてが零戦に代わっていた。そして、わずか5,6機のものが複座の練習用零戦だった。かつて私は、零戦が初めて完成して三菱側の実験を終わり、海軍が受け取ったとき、横須賀の空技廠(航空技術廠)飛行実験部の先任部員だったので、海軍側の実験は最初から私と、真木大尉が担当することになっていた。
~中略~
【零戦にしごかれる訓練生】
ところで飛行機の訓練の場合、初歩練習機から中間練習機へと進み、さらに実用機に移るとき、中間練習機に比べれば、はるかに高性能の最高速が130ノットも差があり、しかも機構が複雑で計器などがたくさん付いている戦闘機を、訓練生にはじめから単独で操縦させることは不安である。性能のそんなに高くない95式艦戦までは、その不安もそれほどではなかったが、96式艦戦が使われるようになってから、どうしても最初は、複座で教官が同乗する必要を感じ、複座の練習機がつくられた。これで練習する者も、教える者も不安なく教育できるようになった。
いずれにしても操縦訓練で、何が一番不安かと言えば、それは離着陸訓練である。特に着陸では中間練習機より着陸速度が10ノット近く速くなり、着陸前に中間練習機にはない、フラップ下げと、脚出しの操作が加わる。離着陸さえある程度不安なく行えるようになれば、あとの空中操作は危険もなく不安も少ない。だが、欲を言えば、編隊、空戦、射撃、急降下爆撃、いずれもその初期には同乗教育をやって目測距離、態勢、加速の加減などを会得させればそれに越したことはない。 ところが、戦時下であってみれば教官の数も足りず、それに輪をかけるように、飛行機も不足で、しかも急速養成が最も必要なときに、すべてを教える念の入った教育はできないので、だいたい不安なく離着陸ができるまで、複座零戦が使用された。1回の飛行時間は約15分から20分くらいで、その間に着陸を4,5回やるわけだ。訓練は午前中の半日だけで、飛行訓練を受ける者は2回だけだが、教官は次々と訓練生を乗せかえるだけで乗りっぱなしだ。そのため緊張の連続で、大空を飛べていいなと他人様が思うほど楽ではないのである。そんなわけで後席だけ風防が付けられたものと思う。
~中略~
中野忠二郎司令 大橋佐知子氏提供
私が筑波空に着任した頃は、マリアナ沖海戦のあとで、日本は空母の大半を失い、既に筑波空の学生や練習生は、空母に乗ることができるかどうか疑問だったが、だからといって着陸訓練をいいかげんに終わるというわけにはいかなかった。
ところがこうして離着陸の訓練をさかんにやると、当時のように滑走路に舗装のしていない芝張りだけの飛行場は、その傷み方が大変激しい。そのためデコボコができて、そこで車輪をとられ、脚をいためたり、機体を破損したりする。大切な飛行機の損傷は何よりつらいので、私は滑走路の舗装を考えた。
かってラバウルの東飛行場では早くからアナのあいた鉄板を敷きつめて「舗装」していたが、筑波でも、この方法でやれば短期間でできるので、まず航空本部と横須賀鎮守府に相談してみた。しかし、鉄鋼資材の不足の現状では、そんなことは全く不可能と言うことが分かった。
それではコンクリートの簡易舗装をするより他によい案もない。そこで横須賀鎮守府の施設部と交渉を始めた。はじめのうちはテンで話にも乗ってもらえなかったが、話をしているうちに分かったことは、舗装に使うコンクリートはあるが、その工事をやる余力が全然ないと言うことである。
そこで飛行長の横山少佐、内務長の寺島大尉らと相談して、航空隊の自力でやろうと言うことになり、施設部から指導員数名と、コンクリートを出してもらうことになった。そしてコンクリートに使う砕石は、稲田石で有名な近くの稲田から、捨てられている岩石と那珂川の砂利を運ぶことにして、水戸の鉄道管理局と貨車輸送を交渉した。
幸いどちらも非常に好意的に協力してくれることとなった。また、作業人員は、航空隊の定員だけではとても足りないので、人事部と交渉して、定員外に約300名増員してもらうことにした。
そしてまた、隊員の中から道路工事経験者を探したところ、数名いることが分かった。なかには技師だった人もいた。これで舗装工事をやるメドもついたので、その他の必要な器材、砕石機械、運搬機その他を施設部から出してもらい、寺島内務長を工事主任とし、有経験者をその助手として、9月中旬から工事にかかったのである。
しかし、ここで困ったことが起きた。工事を本格的に始めると、飛行訓練ができなくなる。そこで航空隊のいない、アキ屋の飛行場へ訓練基地を一時移転することとし、練習連合航空隊司令部の許可を得て、工事期間約2ヶ月を目標として9月上旬、青森県の三沢航空基地へ全機移動したのである。
【筑波空の戦闘】
そんなわけで三沢基地に移った我々が連日火の出るような訓練を続けているとき、すでに敵の手に落ちたサイパンから飛び出したB29一機が、初めて東京上空に姿を現した。それは11月1日のことであった。帝都防空の主力は陸軍だが、海軍では厚木空が担当していた。
しかし、練習連合航空隊司令部では、零戦を持つ筑波空にも防空任務を課しており、急遽基地を霞ヶ浦に移して防空に従事することを命じてきた。それで翌2日、私は零戦24機を率いて、霞ヶ浦に移動した。
その夜も敵機は偵察にやってきた。ついで5日夜も、7日夜も。いよいよ敵機の空襲が必至と考えられる。そこで近間大尉を指揮官とし、教官・教員で防空部隊を編成し、いつでも飛び出せる準備を整えた。
だが、筑波空の本務は戦闘機搭乗員を速やかに養成することである。とにかくいっときも早く筑波空の滑走路を完成させねばならない。寺島大尉以下の工事部隊は、必死の思いで、昼夜兼行で工事を急ぎ、飛行隊は11月中旬、筑波へ戻ることができた。
筑波空戦闘機隊が最初に飛び上がり、戦闘を交えたのは11月24日である。
次いで1月9日、2月10日とB29の迎撃に飛び立ったが、零戦二一型や三二型では、高度性能が不足のため、残念ながら戦果を挙げることができなかった。
2月16日、この日の早朝、房総半島の南方に現れた敵機動部隊は前日からその来襲が予測されていたので、筑波空では教官・教員で4個中隊を編成し、情報によって午前8時発進して敵を迎え撃ったのである。敵はこの日8時半頃から午後1時過ぎまでの間、4波に分かれて来襲し各所で激戦が行われた。この敵は零戦より一段と性能の優れているF6F艦戦で、射撃兵器も12.7ミリ機銃6挺と零戦に勝っている。こちらは教官・教員と言っても、実戦経験者はごく少数しかいない。苦戦の結果、6機を撃墜、6機以上を撃破したが、味方は小林幸三大尉以下12名の搭乗員を失ってしまった。
翌17日、前日の損害で戦闘可能機は14機に減ってしまったが、午前7時半頃から来襲した敵に対し、全機発進してこれを迎え撃ち、2機を撃破した。だが、藤森親海大尉を失ってしまった。
しかし、この日、最も残念だったのは、たいせつな零戦を地上でやられないために、福島県の郡山基地に避難させたところ、その途中を敵に発見されその2機が撃墜されてしまったことである。
一挺の機銃も持たない橙色の練戦(練習戦闘機)で、一方的に敵に撃ちまくられ、無念の涙とともに散華した、緒方賢二中尉と同乗の久下谷正二整曹、古賀信夫一飛曹と谷口顕一二整曹、この4名の戦死を思うとき、私は今なお胸がうずきせまってくるのである。
(筑波海軍航空隊司令、海軍大佐。『中野忠二郎遺稿集』より。中野忠二郎司令は、大正12年海軍兵学校卒業(第51期)、戦艦陸奥、阿蘇乗組を経て、海軍水雷学校、砲術学校、霞ヶ浦海軍航空隊附飛行学生を卒業し、同15年大村海軍航空隊附となる。その後、霞ヶ浦海軍航空隊附兼教官、横須賀海軍航空隊で飛行隊長、千歳海軍航空隊飛行長、第二〇一海軍航空隊司令を経て昭和19年7月より筑波海軍航空隊司令となる。20年7月奥羽海軍航空隊附郡山基地指揮官となり、8月15日の終戦を迎える。)