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第四筑波隊 麻生摂郎少尉 

 

 麻生摂郎少尉は、神風特別攻撃隊第四筑波隊の一員として、昭和20年4月29日鹿屋基地を発進し、南西諸島方面にて特攻散華。任海軍大尉。

 

【麻生少尉の手紙】

昭和19年7月 出水航空隊から

 飛行作業の模様をお伝えします。飛行作業は張切りそのものです。東西1500メートル、南北1500メートルの中央まで、飛行場のすみを回って早駆けで行く時には、自分の足だか人の足だかわからなくなります。重い飛行服を着、長靴をはいて左手に手袋を持ち、そのうえライフジャケットを着た格好は、外から見ればちょっとイキですが、着ているご本人にすれば全く大変です。とめどもなく流れる汗はシャツを通し、厚い飛行服を通し、ライフジャケットにまでしみ込み、長靴の中は水溜まりのようです。しかし一たん飛行機に乗れば、凄い風を受け誠に壮快です。飛行眼鏡をかけ、手袋をつけてチョークとれの号令を下す時には、緊張そのものです。

 やがて離陸上昇するにつれ、今まで飛び去っていた草や木が下に小さく見え、家がマッチ箱くらいになり、人は蟻の頭ぐらいに見える時は、操縦桿をはなして手拍子をうち、口笛を吹きたくなります。しかし風が吹いて気流の悪い時は、操縦もうまくいきません。

 3日前でしたが、地上では発動機の調子快調でしたが、離陸した時にポンポンと手荒い音をたてて怒り出し、機がフラフラと風船玉みたいで行き脚がなくなりました。私もあわてましたが、教員もあわてました。高度百メートルですし落下傘バンドはつけておりません。私もしまったと思いました。せめて落下傘バンドをつけておればと思いましたが、ままよとそのまま飛行場の周りを一旋回して無事着陸しましたが、もう落下傘バンドは必ずつけようと思いました。しかし次の日にはまた面倒臭くなり、つけずに乗っております。この時に思い出しましたが、飛行機は絶対安全だとの信念に到達しました。昨日ですでに8時間になりましたが、いよいよ2、3日中に単独が許可されます。大いに技術の錬磨を心掛けます。

 現在戦局は容易ならぬものがあります。おそらく御父上様も、玉砕の覚悟をなさっていることでしょう。いま日本に飛行場があればと、私たちが関係しているだけに残念です。また私たちは、ガソリンの一滴は血の一滴と考えて練習していることを書き添えます。

【麻生少尉の日記】

 昭和20年4月19日

 イヨイヨ出撃デス。

 皆様ノ御健康ヲオ祈リシマス。昨晩ノ壮行会ノ「海征かば」合唱ニハ感激シマシタ。同期ノ特攻隊員、総員デ行イマシタ。

 午後3時マデ待チマシタガ雨ノタメ出撃ハ明朝0700ト更リマシタ。今日一日戦友タチト、楽シク歌イ、語リ合ウコトガ出来マス。

 吾々ノ宿舎ハ、神風舎トイウ名デアリマス。予備学生ノ中、少尉ノ特攻隊員ノミ、居住シテオリマス。

​ 参考文献

『あゝ同期の桜ーかえらざる青春の手記』

『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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