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筑波海軍航空隊副官部に勤務して  伊澤修次

 

 私が召集を受け、横須賀海兵団で基礎訓練を受け、新兵教育のため62名が一つの班に編成されて、2台の大型トラックに分乗し、月明かりの友部駅から航空隊に到着したのは、昭和18年8月13日未明のことでありました。その当時は予科練の練習隊でしたから、まだのんびりした雰囲気が残っていました。主計課の教育官は力石主計大尉、直接の教育の主任は元気のいい衣笠少尉、主計課の兵曹は岡野上曹で、この人は叔父さんが清水素之という有名な画家で、本人も絵を描いていました。副官部へは衣笠少尉が、「おい、この兵隊は俺が貰っていくぞ」といきなり基礎教育が終わった途端に連れて行かれました。

 それから私の副官部の生活が始まり、力石、磯田、工藤、その他の主計長、副官付の士官に仕えました。下士官は何と言っても永田兵曹で、この人が一番親しかった思い出があります。永田兵曹は柔道などをやっていて、怖い下士官でしたが、本当は心の優しい人で、私には親しい先輩でした。

 尚、余談になりますが、私のいた当時、牧という飛行隊長の大尉がおりました。牧隊長は霞空にも教官として往復していましたが、ある日副官部の二階から飛行服を着た大尉が歩いて飛行場へ向かう後ろ姿を私はぼんやりと見ておりました。ところが翌日、帰隊の牧大尉が常磐線の踏切で、乗っていた官用車(四輪)が踏切内でストップし、折しも入ってきた貨物列車に衝突され、200メートルも引きずられて即死という思いがけない事故になりました。飛行隊長の猛者が汽車と衝突して死を遂げたとは運命のいたずらというより他ありません。牧隊長は少佐に昇進し、海軍葬を行いました。弔文の原稿は私が書き、永田兵曹が浄書しました。

 私はとぼとぼと一人で飛行場へ歩いて行った牧隊長の後ろ姿が不思議に忘れられません。

 満2年、一度も筑波航空隊を出ることなく終戦を迎えたのは、ある意味で幸せなことだったと思います。あれから57年が経つとは夢のような思いで一杯です。

 

 蚕豆を剥きつつ戦争あるまじく

 炎畫の拡声器より神の声

 

(友部町(現笠間市)在住で、終戦時まで筑波空副官部在籍の山中俊哉氏宛て書簡より抜粋させていただきました。

 伊澤氏は東京都小金井市在住)

 参考文献 
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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