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わが青春の海軍  鈴木 留記

 

 私は昭和9年に、海軍志願兵として横須賀海兵団に入団しました。資料もないので断片的な思い出ですが、5月末頃福島県北会津郡高野村(現在は会津若松市)を出た時は、田植えの前の農繁期にもかかわらず、全村を休日とし、村をあげての歓送でした。会津若松駅まで徒歩で6キロの砂利道を、青年団員、友人に見送って頂き、列車が動きはじめた時、万歳万歳の声に感極まり、この時からどんなに辛く苦しくても、と思うようになりました。

 入団してから、時々同郷の友と会い、慰め励まし合って頑張りました。8月は毎日午後は土俵で相撲、終わって水泳でした。相撲は勝ち残りもありましたが、時には負け残りもありました。台湾出身の同期生は相撲は弱く、何時も負けてばかりで可哀想でした。この日も3人続けて負け、私が4人目で土俵に上って取り組むと、小さな声で「鈴木、負けてくれ」と言われ、上手に負けてやり、後から感謝されました。

 海兵団を卒業して初めて乗った艦船は、最新鋭重巡洋艦鳥海でした。新兵の憧れの艦船勤務が1年、昭和11年には軽巡洋艦夕張にかわり、南支警備にあたりました。香港、アモイ、台湾方面で、台湾海峡は何時も荒れて艦船も木の葉のようにゆれて辛い思いでした。

 12年に海軍砲術学校練習生になりました。下士官になるための教育訓練で、何時も駆足でした。夏の水泳大会では、私のチームが優勝しました。また、銃剣術の検定で初段になりました。

 砲術学校卒業後、空母赤城勤務となりましたが、大改装中で、のんびりした勤務でした。ここで砲術学校高等科練習生となり、9ヶ月間、陸戦射撃訓練、方位盤射撃、小銃、重機関銃、対戦車の迫撃砲、重砲などの訓練に励みました。

 高等科卒業後、駆逐艦旗風で再び南支警備につきました。艦内の水泳大会で、横泳、平泳、自由形の3種で優勝し、艦長より賞を頂いた時は、隊はもとより、私も喜びと感激で一杯でした。

 昭和16年夏に、南部仏印進駐作戦により、輸送船団の護衛艦に乗艦し、大船団の前後に廻り乍ら、南へ南へと進みました。最前方の艦はマストの先端が少し見えるだけで、この時「ああ堂々の輸送船、暁に祈る」を思い出し、地球は丸いの実感でした。平和裡に上陸作戦が終了し、メコン川をサイゴンまで進むと、陸軍部隊や従軍看護婦たちのバンバンの声に感激しながら、日本の力は大したものだと思いました。

無事任務を終え、母港に帰投しますと、海軍機関学校の教員を命ぜられ、舞鶴に向かいました。機関学校に移って間もなく、12月8日の開戦を迎え、一段と緊張しました。重・剣道、銃剣術等は、とくに盛んになりました。銃剣術はここで三段になりました。水泳は生徒共に1万メートルの遠泳をやりました。泳げない生徒は救助艇を付け乍ら泳ぎますが、辛いことだったでしょう。舞鶴での教員時代は3年の長きに及び、19年2月に第5防空隊への転勤を命ぜられ、館山砲術学校へ移りました。さらに5月末に北千島の占守島に転勤しました。島には小さな飛行場があり、毎晩のようにB29が上空を偵察飛行していました。高度のせいか、味方機は発進しなかったようです。

 昭和20年に入ってからは、低空で掃射を受けるようになりました。ある日、突然低空で掃射された時は驚きました。近くに機銃部隊がありましたので、敵機が去った後で、なぜ撃たなかったと尋ねたところ、絶対命中する弾丸でなければ「射つな」の命令とのことで、補充がつかないからやむを得ないと思いました。この頃は毎日戦車壕掘りでした。

 同年5月に准尉に昇進し、横須賀へ転勤になりました。8月1日より部隊指揮法や天気図の作成、鎌倉周辺の防空壕の状態、本土決戦の研究などに追われました。14日の夜、突然、筑波海軍航空隊附を命ぜられました。15日終戦、翌日、友部の筑波空に赴任しました。当時のことは、一種独特な精神状態であまり記憶にありません。10月1日に復員するまで筑波空にいましたが、さしたる仕事はなかったように思います。

 戦後、公職追放となり、職も食もなく、どうすればよいか迷い苦しみました。何年か後に警察予備隊が設置され、そこに話がありましたが、長い間規律に縛られた生活に戻りたくないの思いでした。人のやることなら出来ないことはないとの思いで繊維品の商売を始めました。行商、仲買、常設店「若松屋」と軌道に乗りました。昭和38年頃から菊作りに励み、全国菊花連盟大会で総理大臣賞を受賞しました。菊作りに平和の尊さを感ずる昨今です。(友部町在住)

 参考文献 
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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