昭和15年11月17日、筑波海軍航空隊着任と同時に教員を命じられた。この頃の教育部隊には古い下士官が多く、私はまだ若い方であった。冠谷悟、新谷国男、大林行雄、井上朝夫などの同期生もいた。霞ヶ浦空や百里空など、近くで教員をしている同期生も多い。宮本亘、小林義弘、武田忠義、国原千里、大隅梅太郎、羽野興広、中岫正彦などである。 最初は操縦練習生の受け持ちだったが、期間が短く、記憶にない。初めて最初から受け持った丙二期生が一番印象に深く、熱も入れて教育することができた。まだ開戦前であり、受け持ち練習生も3人であり、練習生の資質の良かったこともあるが、篠塚二水兵は首席、小野一水兵は次席の成績で卒業することができた。
もう一人の沢田三空兵だけはなかなか思い通りにならず、陸攻向けとなった。陸攻向けにも適性上優秀な者ももちろんいるが、ちょっと危ないと思われる者は、副操縦士から訓練できる利点のあるためであった。甲、乙の練習生は平等であるが、丙種の場合は一般の全兵種から募集するため、三等兵から下士官まであり、食事番や教員当番など雑用が多く、どうしても若年兵は毎日の訓練にも疲労の重なることが多いようであった。
9月には二期生が卒業し、丙四期生が入ってきた。筑波空にはもう一個分隊があり、午前、午後交代で飛行場を使用していた。丙四期になると、急に戦雲緊張してきて、受け持ち練習生も5人に増えた。中には民間飛行機訓練所出身の幸長という二等水兵がいた。腕はよいのだが、あまりに操縦が慎重すぎる。おそらく輸送機出身の教員の教育を受けたのではないかと思われ、癖を直すのに苦労したことがあった。
昭和16年12月8日、日本はついに戦争に突入した。一瞬、大丈夫だろうかと感じた。何日か過ぎてハワイ攻撃の戦死者が発表された。攻撃隊の中に、カネオヘ飛行場を銃撃し燃料タンクに被弾、部下を母艦への帰投進路に向け、自らは引き返し、飛行場に自爆された飯田房太大尉の記事が大きく出ているのを発見して驚いた。そして、疑問と不満を感じた。
「蒼龍」を対艦する時、あれほど頼んだのにどうして私を列機に呼んでくれなかったのか。もちろん艦隊には私以上の熟練者が大勢そろっていただろうから、これは仕方ないとしても、日曜の朝、奇襲攻撃が成功しているのに、なぜ被弾するほどの反撃があったのか。「蒼龍」の列機は飯田大尉が一人突っ込んでいくのに、ハイそうですか、と真っ直ぐ帰ってきたのだろうか。当時の私たち搭乗員の心情では、自分の隊長が自爆すれば、列機も当然あとを追って自爆すると信じていたからである。
短い新聞報道だけでは詳しいことはわからなかった。そして戦況は勝利のうちに進み、どこにそんな力がったのか、と思うような連勝ののち、昭和17年の正月になって兵員の臨時異動があった。
古い教員方の幾人かが転出して、私の班に偶然、「蒼龍」から、若い艦爆操縦員が教員として転入してきた。菅野三空曹か佐々木三空曹のどちらかである。私はこの人に飯田大尉の戦死状況と、列機は誰だったのか、本当に帰れないほど大きな穴がタンクに開いたのだろうか、などなど食い下がって聞いた。
初めはなかなか話さず、戦闘機の方のことは分からない、と言っていた彼も、「班長の熱心さには負けました。実はこれは絶対に口外してはならぬ、と箝口令が敷かれたことで、他人には話せないことですが、あまり班長が飯田大尉のことを心配されるのに感じて言います。実は、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいのです。私も直接聞いたのではないですが、(飯田)分隊長は攻撃の前日、列機を集めて『この戦は、どのように計算してみても、万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい。』という訓辞をしたそうです。予定通り引き返したときも燃料は漏れていなかったと言うことでした。しかし、このことはその日の内に館内全員に口外することを禁止されたのです」とのことだった。
私はそれを信じていた。そして最近になって、当時の攻撃隊編成表を見ることができた。そして飯田大尉直率の列機2,3番機もともに続いて自爆していたことを知ったのであった。
私は昭和15年、12空在隊当時のことを思い出した。零戦の活躍によって、飛行隊が支那方面艦隊司令長官より感謝状を授与され、我々搭乗員も喜んでいた中で、一人飯田大尉は浮かぬ顔で、
「こんなことで喜んでいたのでは困るのだ。空襲で勝負をつけることはできないのだぞ。戦闘機は制空権を握って攻撃隊、艦隊の安全を確保し、海軍は制海権を握って陸軍の輸送の安全を確保するのが任務だ。最後の勝利は陸軍の歩兵さんに直接足で踏んでもらわなければならないのだ。砲兵も工兵も歩兵を前進させるための掩護部隊にすぎない。その陸軍の歩兵が重慶、成都を占領する見込みがなくては困るのだ。
今、奥地攻撃で、飛行場に全弾命中などと言っているが、重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。実に二千対一の消耗戦なのだ。
こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる。歩兵が重慶、成都を占領できないなら、早く何とかしなければならないのだ。こんな感状などで喜んでいられる状態ではないのだ」
と話されていたことが、鮮やかに思い浮かんだ。飯田大尉こそ、私の11年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで信服していた士官だったのである。
昭和17年1月には、丙四期は卒業して、甲七期生が入隊してきた。受け持ちは6名となり、飛行作業は忙しくなった。普通、離着陸を単独でするのは操縦の向上具合を見て順番に許可されるのだが、これは練習生の中でも技術の目安になるので、私は差別感を与えたくないと思って、多少技術に上下は出ても、ほぼ分隊の中間くらいのところで全員単独飛行を許可した。いつもながら、教員として一番心配なときである。
私はこの級の離着陸を終わり、空中操作、編隊飛行の始まったところで転勤命令を受けた。昭和17年4月1日、准士官に任官したため、3ヶ月の予定で士官教育を受けるために、横須賀海兵団の第一期准士官学生を命じられたのである。
すでに前年12月には太平洋戦争に突入しており、危ないな、と言うのが本心であった。重慶でさえ落とせないのに、どうしてワシントンが落とせるだろうか。ハワイやマレー沖の戦勝を聞きながらも、不安は去らなかった。
零戦の数も、搭乗員の数も、大体見当は付く。この練習航空隊にしても、着任したときはまだ若年の方だったのに、今は漢口から遅れて着任した羽切兵曹が先任で、私は次席教員になっていた。他はみな飛練を出たばかりの若い下士官か、私より古い応召の下士官、予備下士官になっている。
こんなに拡がった戦線の始末は、どうつけるのだろう。それほどの戦力があるならば、南方へ手を出さず、重慶、成都に攻め込んで、中国と有利な講和を結んだ方が良かったのではないか。我々には外交や国策のことは見当がつかなかった。それでも、早くしないと自分の出番もなくなるのではないか、という心配もないわけでもなかった。(角田和男『零戦特攻』より)
角田和男氏は、昭和9年横須賀海軍航空隊入隊、同13年第5期乙種飛行予科練習生卒業、同14年10月の南寧作戦、15年中国の重慶、成都攻撃に参加、11月筑波海軍航空隊に転属となり教員を務める。太平洋戦争中は、ラバウル、硫黄島、台湾、フィリピンなどの空戦に活躍する。フィリピンでは、特攻隊の直掩、特攻待機として行動する。台湾の宜蘭基地(第二〇五海軍航空隊)にて終戦を迎える。海軍中尉。茨城県霞ヶ浦町在住)
『青春の証 筑波海軍航空隊』友部町教育委員会生涯学習課