昭和18年12月1日、中練教程、筑波航空隊入隊式があった。第一種軍装に身をかためて、号令台前に整列する。
「陰山慶一ほか164名・・・」と、私の名前を呼ばれて予期せざることに驚いた。
荒木保司令の訓示があり、今日から憧れの大空に生命をかけた飛行作業に入るのだ。真剣、確実、細心でなければ飛行作業はできないと覚悟をあらたにした。
入隊式が終わるとすぐに、学生舎に帰って飛行服にきがえ、ジャケット(救命胴衣)も着て、駆け足で飛行場のエプロンに集合するよう命じられた。
すぐさま用意を整えてかけつけると、5名がペア(組)となって、担当教員(下士官)と顔合わせをおこない、午前中の飛行作業についての説明をうけた。私たちのペアの教員は、迫一飛曹(戦闘機出身)である。
作業課目は地上演練で、飛行機の点検法、始動の仕方、暖機運転、各計器の説明など事細かに指導を受けた。
やがてエンジンが始動され、プロペラがまわりはじめると、その風圧の強いのに驚いた。なにもかも、目に入るものすべてがめずらしく、新しい体験ばかりである。この飛行機を自分でほんとうに操縦ができるだろうかと、内心不安になった。
午後からは飛行作業、「慣熟飛行」である。いよいよ生まれて初めて飛行機に乗るわけである。
地上指揮官に届け出もそこそこに、ペアの3番目に搭乗する。狭い座席に座り、教えられたとおり伝声管をつなぎ、教員の指示をじっと待つ。
やがてプロペラがうなり、身体がふるえるような気がする。
「落下傘帯のフックをつけよ。バンドはよいか」と、伝声管から指示が伝わってくる。翼端にいた整備員がチョーク(車輪止め)をはずした。飛行機が動きだして、やがて離陸地点に到着した。
「左右前後、見張りはよいか」「離陸する」
レバーを一杯に入れると、プロペラが猛烈に唸りをあげている。飛行機がすべり出した。いつのまにか身体が浮き、離陸しはじめた。地面がだんだんと離れていくのがよくわかる。
上昇後、まもなく第1旋回にはいり、機首がかたむいて身体がおかしな状態になる。そのような私の状態を察してか、後席より教員から声がかかる。
「ほら、前方の筑波山ヨーソロだぞ」
やがて第3旋回も、第4旋回も終わったのも知らないうちに、飛行機は着陸の体勢に入っていった。地面が急にせまってくる、と思ったとたん、ガタンと接地する。同時に、またエンジンを一杯にふかして離陸する。
「よく地上をみよ」「左右をよくみよ」「筑波山ヨーソロだぞ」
あれこれと後席から教員の指示があるが、何をしていいやら、さっぱり見当がつかない。3回目に着陸して飛行が終わり、列線に帰ってきてホッとした。つぎの学生と交替して指揮官に届け終わるまで、無我夢中で緊張の連続だった。
これから毎日、このような飛行作業が続くのであるが、はたして操縦がうまくできるようになるであろうかと、期待と不安で胸がいっぱいになった。
私たちの中練教程は、昭和18年12月1日より昭和19年3月24日までの約4ヶ月間である。もちろん、この間は冬季日課であり午前6時に、
「総員起こし!」がかかる。
ここでは飛行作業が主体なので、飛行場や練習機の都合で、2個分隊(1分隊約80名)が午前と午後に分かれて、交替で飛行作業を実施する。
しかし、飛行作業は天候しだいで、あなたまかせである。有名な筑波おろしのからっ風が吹いて、朝は霜柱が立ち、身を切るように冷たかった。
私たちが飛行訓練を受けるのは、93式陸上中間練習機(通称赤トンボ)である。93中練は昭和8年以降の海軍航空隊の搭乗員は、すべてのものがお世話になった飛行機である。
昭和8年に中間練習機として海軍に正式採用されて、終戦まで使用され、ひじょうに寿命が長かった。赤トンボと称せられて、みんなに親しまれた複葉機で、どこの航空部隊にも2,3機はあり、連絡飛行などに幅広く使用されていた。この赤トンボも、戦争末期になると、爆装して特攻機として使用され、特攻の猛訓練をしたのだから、痛ましい限りである。
筑波海軍航空隊では、はじめて飛行科予備学生がこんなに多くやってくるというので、その受け入れは物心ともに大変だったようである。
教官はもとよりのこと、教員にいたるまで、何かとわれわれのために研究会を開いたようである。
整備の教員が、「私たちは飛行科予備学生に講義させられることがわかり、日夜、一生懸命に勉強して待っていました」と話してくれたことをみてもわかるように、われわれに対する期待の大きさと準備は、本当にありがたいものだった。
その一つに「三誓」がある。
教育期間中、雨が降っても猛吹雪でも、毎朝、「総員起こし」後、ただちに駆け足で航空隊の一角にある筑波神社に参拝して、当直学生の号令で、大きな声で「三誓」を口誦するのであった。
一、今日一日、忠節を尽くさん
一、今日一日、旺盛なる攻撃精神を発揮せん
一、今日一日、没我精神に徹せん
「三誓」は飛行科予備学生のためにつくられたものと理解し、私たちは日夜これに恥じ
ないように行動しようとつねに努力した。
『海軍飛行科予備学生よもやま物語』
93式中間練習機(小崎和夫氏提供)
陰山慶一氏は、長岡高等工業学校卒業と同時に、昭和18年9月、第13期飛行専修予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。筑波海軍航空隊では、戦闘機専修学生(学生長をつとめる)として操縦訓練にはげむ。その後、第203海軍航空隊、戦闘第304飛行隊、第2美保空、大和空、第1081空に所属、海軍中尉。戦後は島根県下の中学校長を歴任、現在は教育新聞社山陰支局長。