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斉藤義夫大尉
 

 斉藤大尉は、海兵71期、第40期飛行学生、筑波空を経て、千葉県の茂原基地の第252海軍航空隊戦闘304飛行隊に

所属。昭和20年8月5日朝9時30分、基地を発進し、外房総の勝浦沖で米軍機と交戦、2機を撃墜したが、被弾して自

爆しました。首都防衛の礎として、終戦を迎えることなく24歳での戦死でした。若くして散った息子を偲んで、母

堂は次の歌を残されました。

 勝浦のかもめ立つなる水底に

   雄々しく散りし吾子を忍びつ

 勝浦にうらみをのみて散りし子の

   年をかぞえてゆびを折るかな

                          『同期の桜』、『続同期の桜』より

【斉藤義夫大尉の手紙】

 拝啓

 4月15日附松山宛の手紙本日当地にて受け取った。病気はすっかり良くなったか、俺は相変わらず元気至極毎日々々飛行場で過ごしている。昨日は浪曲慰問団が来て皆を愉快にさせて呉れたが、今日は朝から梅雨らしいしとしとした雨で訓練もならず、一日ぼんやり過ごした。

 先日は近所の女学校から血染めの鉢巻或いは御守、人形等を送ってきたので籤引きで割当てた所、俺には何も来ず残念な事をした。血染めの鉢巻は何だか勿体ない様な気持の悪い様な気もして、皆手を出しかねていた。

 竹田は去年「フィリピン」方面で戦死した。中島は最近大阪で戦死したと云ふ話を聞いているが確かなる事は不明、居所を知らさうにも彼等が居らぬのでは仕方あるまい。

(竹田大尉、中島大尉はともに筑波空戦闘機出身)

 戦局全々急を告げ寸時も油断ならず、吾々のクラスも次から次へと散っていき、神雷特攻隊の三橋大尉は俺の「アルバム」にあるあのナイスだ。又あの時発表あった神雷隊の大尉のほとんど俺のクラス名簿にある人々だ。戦友の戦死を無駄にせぬ様、飽く迄頑張り通す積りで皆訓練している。

 正子は元気で勉強しているか、この写真が出来たら送って呉れ。岩国の方のアルバムの整理を頼む。此処でも相当写真を撮ったが、「アルバム」が全然無くて困る。

 天候不順の折柄、身体に気を付けて確かり御奉公せん事を祈っている。

 末筆乍ら両親に呉々も宜敷

                                      義夫

 邦子殿

 

 7月3日附、郡山宛手紙本日拝見致しました。只今再び此の地に戻って訓練

して居ます。敵襲も時々ありますが、兎に角実力の練成に邁進して居ます。

 先日来手紙を出しましたが御返事が無く、もしや先日の空襲にやられたの

ではと案じて居りましたが、案の定で全く吃驚いたしました。残念乍ら運が

悪かったとあきらめる外ありません。然し皆様御無事であった事は不幸中の

幸いと申すもの、

此の仇は必ず討ってお目にかけます。

 此方隊員一同数次の被爆にも損害ほとんどなく、張り切って居ます御安心

下さい。

 

父上様 母上様

(ご家族が受領されたのは戦死後、終戦後の8月27日でした)


『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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斉藤義夫大尉(斉藤哲子氏提供)

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飛行帽(斉藤哲子氏提供)

斉藤大尉の「寄せ書き」集(斉藤哲子氏提供)

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