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第一筑波隊 金井正夫少尉

 仙台高等工業専門学校(現東北大学)を卒業して、第13期飛行予備学生となり、筑波海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練を受けました。昭和20年4月6日、神風特別攻撃隊第一筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に突入し、散華されました。享年23歳。任海軍大尉。(第一・第二筑波隊集合写真の中列左から5人目の方です)

【金井正夫少尉の手紙】

 

 何から書き出していいのかわかりません。

 外は春雨がシトシトと降り続けていますし、ラジオの歌が静かに聞こえています。

 静かな晩です。

 天候回復をまち出撃します。この雨が降らなかったら、今日今頃はもう散ったかも知れません。

 前線は私達の来るのを今か今かと待っています。

 男の最期です。思ひ切り働いてみます。

 同じ内地の土を踏みしめながら会へないのは残念ですが、かえって未練なく飛び立てます。沖縄の戦果の中に​私の生涯の幸せが、印されるでしょう。攻撃、絶対に生還はできません。敬ちゃんのように死に度いと思っています。

 敬ちゃんは偵察員の本領とも云ふべき死にかたです。私もいい死場所を得たと、信じています。ご安心下さい。最近の写真を送り度いと思っていましたが、撮す機会もなく実現しませんでした。

 丁度私も頬髪を伸ばし始めた時です。一糎はのびているでしょうか。頭はのばしませんでした。

​ 兄さん。敬ちゃんの写真を見たいと思っていましたがこれも駄目でしたね。然し攻撃の時はみんなの写真を持ってゆきます。

 旅館の桜はもう満開です。多分故里の桜も満開今盛りの頃だと懐かしく思い出して居ります。弘法山なぞみんな楽しい思い出です。

 風が少し出てきた様です。明日は晴れるでせう。九州南端の基地まで進出します。三浦先生は、志布志の町とか。

 本当に親孝行もこれからと思っているうちでしたが、御両親はじめ兄弟みんな長生きしてください。

 書いても書いても何を書いたのか。何か書き忘れた様な気がしてなりません。

 ただただ無理をなされぬ様に御長生き下さい。

 ご両親様

 兄弟皆様

 

 国やぶれて何の山河ぞ。必ずや成果を上げ、ご期待に副ひます。

 窓外の煙雨を眺めながら静かに出撃を待って居ります。故郷の山河を回想しつつ、だれか白頭山節を歌って居る。

 泣くな歎くな必ず還る 桐の木箱に錦着て

    逢いに来てくれ  九段坂

​ 御健闘をお祈りいたします。                                正夫

【風防のペンダント】

 

 筑波海軍航空隊の金井正夫少尉から、根岸トシさんに友人を通して贈られた、金井少尉手作りの風防のペンダントです。ハート型ペンダントにはM&Tのイニシャルが入っています。二人は直接会ったことは一度もありませんでした。材料の風防ガラスは、アメリカ軍用機B29のものでした。

 根岸トシさんは、当時東京の京華高等女学校5年生でした。写真は、軍需工場への学徒動員の勤労奉仕の帰りに撮したものです。3人の友人は翌日、東京を離れて疎開されました。撮影した写真館もほどなくして戦災をうけ焼けてしまいました。

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根岸トシ氏 提供

 参考文献

『丸 277』 
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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後列 右 根岸さん
前列 左の友人は那須へ、右の友人は富山へ疎開されました。スカートは禁止で手縫いのモンペ姿でした。 
根岸トシ氏提供
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