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第五筑波隊 西田高光中尉

 

 大分師範学校卒、第13期飛行予備学生、昭和20(1945)年5月11日、第5筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄南西諸島にて散華。享年23歳。任海軍少佐。

 

【飛行マフラー寄書】

 

神雷轟一度 砕驕艦無跡

一機当千之練技 求死中活期必中
薩南一辺月 憶君涙散散
西田 高光
大木 偉央

轟々と響く爆音にも 若しや彼の人ではないかしらと思へど客の手前

今宵も亦数多の男性に穢されし 唇を赤きルージュに染めて誰を待つのか巷の女

諸井 國弘
温厚篤実
町田 道教
吾二十五年之人生 尽忠孝之二字
石丸 進一
死生有命 不足論
桑野 実

き乙女を求める益良雄 筑紫の海辺に退屈し、益々娑婆気の花乱れ咲く

噫々綾ちゃん悲しや鹿屋の人よ 海軍○○ダボンチャン

本田 耕一

酔ふてはえうてう美人の膝枕 快楽の一夜も明くれば 愛もなければ恋もない

握る操縦桿にも叩く電鍵にも 見はる眼頭にも昨夜の未練は 更にない

嗚呼俺等は空征く旅烏 神風と共に去る男

黒崎英之

【西田高光中尉の鹿屋での日記より

 

 昭和二十年五月十日、木曜、晴れ

 一六○○特攻隊員整列。明早朝を期し吾が隊にも待望の攻撃命令下る。第一線鹿屋基地に来て旬日余、着の身着のままシラミも居そうな感じがする。機動部隊遂に慶良間周辺より近寄れず、攻撃の機なし。よし、来たらざれば吾等往く。洋上航行四時間、憤眼を見開き必ずや

命中せん。

 午後 六時より飛行場に飛行機の試運転に行く。調子良好なり。終わって暗い飛行場の端を通って帰る。シーラスが夜光雲の如く魚鱗の如く南北に走る。風は北西、明日は立派な天気だ。

 五月十一日、暗い道の中で自分の年を数へて見た。今年の四月一日でニ三歳となって居る。何日俺は息をしたか、明日も入れて二十二年と四十二日となる。自分でも永い様で、相対的に考へて見ると実に短かったものだとも思はれる。将に夢の如く、幼き昔の昨今の事共もち

らほら思ひ出されて来る。両親兄弟の顔、そして知ってゐる人々総ての顔を思ひ浮かべたが、だれも笑顔のみ思ひ出されるのも、明日の壮挙を祝してゐてくれる故だらう。

 昨夜小さいヘビの子が歩いて居る前に七匹ゐた。三匹は近づいたら逃げたが、四匹はのろのろしてゐて逃げない夢を見た。ある人に聞いたら、ヘビの夢は一番よいと聞いた。この日に明日のことを聞き、空母七隻の機動部隊に攻撃命令下るとは、夢もまんざらうそでない。必ず命中疑ひなし。

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​西田高光中尉

 燃ゆる殉忠の血潮、熱血、撃滅の闘志、必中の確信、大和男の子としての誰にも劣らざる気魄はある。誰よりもある。而し人間としての弱さか、生の不可思議、死の不可思議、それは未可解のままの様の気がする。而しそれは悩みとか云ふ様な意味ではない。軍人にこの機を頂き、何等なくよろこびに耐へざるも、何だか今俺は死して良いのかとも思ふ。否、今死んで良い。開戦当時に引き返す戦機を作るのだ。今こそ征かざれば征く時なし。

 考ふれば明日どうもこの体が木端微塵になるとは思はれない。而し生延びたものだ、今日までも。今迄大空の防人として召されてより、死中に活を求むる実戦的猛訓練に幾度か死に直面し、命びろひをしたであらう。常に「浜迄は海女も蓑着る時雨かな」の歌を心中に持ち続け、幸今日まで斯くも壮健なりし。

 多くの友は今日の機を得ずして死していった。又今日の如き機を先に得て、壮烈雲を朱に染めて散華した。今こそこの壮挙に参加し得る自分の幸福を満喫しつつ、総てを忘れて、明日は必ず五百瓩「爆弾」の国民の憤激と、血と汗のかたまりとなれる愛機と共に命中、神州を窺ふ野望と共に太平洋の海底深く葬り去らん。

 昭和二十年五月十一日午前九時三十分前後、皇国の一臣高光、総てのものに別れを告げん。明朝は三時半起し。つきぬ名残もなしとせざる感あるも、明日の必中のために寝る。

 只皇国の必勝を信じ、皇国民の一層の健闘を祈りつつ、一臣としての常道をひたすらに歩き、悠久の大義に殉ぜん。二十年余の至らぬ限りを、明日の必中によりてこそ聊か報へん。

 

お父さん

 

お母さん

 

兄弟

 

そして教え子

 

その他の人々                       さらば

 

神雷爆装戦闘機隊筑波隊一隊長   

西田 中尉

『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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