DIVINEWIND~神聖な風~
第六筑波隊隊長 富安俊助中尉
【はじめに】
1945(昭和20)年5月14日午前6時56分,Big-Eと呼ばれたアメリカ海軍の象徴的航空母艦エンタープライズ(CV6 )に,1機の零戦が体当たりし,大破させた。その結果エンタープライズは米本国へ修理のため曳航され,二度と戦列に復帰 することはなかった。米軍はこの特攻機の冷静沈着かつ,最期の瞬間まで強い意志を感じさせる行動に感懐を覚え,他の KAMIKAZEとは区別してDIVINEWIND,神聖な風と呼んだ。この零戦にはだれが乗っていたのか,そして出撃から突入,さらには 戦後の今日に至るまで,どのようなドラマがあったのか。
【Big-E 空母エンタープライズの受難】
TF58(Task Force58 =第58任務部隊)は5月14日に大きな被害に苦しむこととなる。夜が明けてまもなく,26機の日本機が来襲して来た。 6機が対空砲火で撃墜され,19機がCAP(上空哨戒機)によって撃墜された。だが,0656(午前6時56分),これらをすり抜けて きた生き残りの1機がエンタープライズの前部エレベータの後部に突入した。それはエレベーターホールを吹き飛ばし,飛行 甲板の大きな張り出し部分を持ち上げた。爆弾は飛行甲板を突き抜け,そこから 50フィートも奥(3階下のフロア)の船の深部に達して爆発した。エレベーターは破壊され,その部品 (飛行機を載せて上下する板状の台)は400フィート(130メートル)の上空まで吹き上げられた。格納甲板の前部とエレベーター 室に火災が発生した。火災は短時間で制御可能の状態になり,30分で鎮火した。物的大損害の割には人的損害は比較的に軽微 で,13名が戦死し,68名が負傷した。エンタープライズは大修理のため,海軍工廠に送り返さなければならなかった。米軍の あるパイロットは,この日の戦闘状況をつぶさに書いているが,この零戦はCAPや弾幕にやられそうになると雲の中に隠れ,時 々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認し,すぐそばまで近づいてからダイブ(急降下)を始めた。高速,機首上げ でオーバーシュートしそうになると背面飛行を行って修正し,母艦の最も弱点とするエレベーターめがけて突入している。エ ンタープライズは大破炎上し戦線離脱を余儀なくされた。彼はこれまで日本海軍の先輩ベテランたちがよってたかって 3年かかってもできなかったことを,たった一人で一瞬の間にやってのけたのだ,と称賛の言葉を述べている。また別の者は, この特攻機をDIVINEWIND(神聖な風)と呼び,他の特攻機と区別している。いわゆるカミカゼが無謀という意味合いを含むのに比し,この零戦の類まれなる計画性と巧妙精緻な技術は米軍に特別な尊敬の念と大きな感動を抱かせたともいえる。
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50番爆装した富安機(零戦五二型丙)
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富安機により大破したエンタープライズ
【搭乗員確認の経緯】
ことの発端は海兵77期出身の菅原完氏が,海兵63期の中井一夫氏の戦績についてアメリカ側の関係者に 取材している時,アメリカ側から「1945年5月14日0656(午前6時56分),トミザイという中尉が零戦の特攻機 (爆戦)でエンタープライズに突入しているよ」と知らせてきたことから始まった。突入のあった5 月14日夕刻,エンタープライズでは,特攻機の突入によって戦死した13名の乗組員を星条旗で包んで水葬にしたあと,特攻隊 員も艦尾から水葬にしたとのことである。その際遺体の飛行服の階級章から海軍中尉であることが判り,ポケットに入っていた複数の名刺から,日系二世の通訳がtomi-zaiと判読したそうである。 ところで当日,爆戦で未帰還になった者の中にトミザイという名前はない。一体誰だろう,ということで,日米双方で確認調 査が始まった。防衛研究所の資料によれば,当日未帰還になった爆戦搭乗員の中尉は4名で,そのうちの2名はエンタープライ ズへの突入のあった0656には別の場所で生存中だったことがわかり,あとの2名は第6筑波隊の富安俊助中尉と第11建武隊の楠 本二三夫中尉であった。このことから,トミザイはトミヤスに違いないと判断されるに至った。日本側では富安中尉(戦死後 少佐に特進)の遺族,秀雄氏(弟)と白鴎遺族会,筑波海軍航空隊記念会が相談した結果,富安機の破片を返してもらおうとい うことになり,菅原氏を日本側の窓口として交渉することとなった。
【友部町歴史民俗資料館特別展】
友部町(現笠間市)では,2003年8月,「筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊-平和への願いを込めて-」と題する特別展を開催した。 中央公民館1階ロビーにて,零戦の破片,突入機搭乗員であった富安俊助海軍中尉(予備13期)の遺品・遺書を中心に展示, 元筑波空操縦教官で神雷部隊桜花隊分隊長,海軍大尉だった林冨士夫氏(海兵71期,元航空自衛隊一等空佐,筑波空記念会会長)による, 「特攻の起源と筑波海軍航空隊」と題した講演が行われた。なおこの講演会には約140名が出席(定員150名)している。
「平和への願いをこめて このたび友部町立歴史民族資料館特別展として,「筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊―58年ぶり日本へ,空母エンタープライズに突入した 零戦の破片」展を開催いたします。 太平洋戦争の最激戦地沖縄周辺のアメリカ軍に,神風特別攻撃隊の攻撃が繰り返されました。昭和20年(1945)5月14日,第6筑波隊の富 安俊助中尉の零戦がアメリカ軍の猛攻をたくみにかわして,空母エンタープライズに突入しました。この突入で乗組員14名が戦死,60名が負傷しました。輝かしい戦果をあげ ていたエンタープライズは,再起不能に陥ってしまいました。
エンタープライズの乗組員ノーマン・ザフト氏が,突入した零戦の破片とプロペラの一部を所持していました。 ノーマン氏は,長い間,日本やカミカゼに対して良い感情を持っていませんでした。それは,氏の同僚3名が戦死したからです。50年以上たって,この悪感情も薄れ,2個の貴 重な思い出の品のうち,零戦の破片を日本の遺族に返還することを決意されました。
日米の友人を通して,零戦の搭乗員とその遺族の調査が進められ,今年搭乗員が富安俊助中尉,遺族が東京にいることが判明し,7月上旬,零戦の破片が返還されました。
この展示会は,富安中尉の遺族富安秀雄氏,筑波海軍航空隊記念会林冨士夫氏,木名 瀬信哉氏,白鴎遺族会野崎武治氏,返還の交渉に当たられた菅原完氏のご好意で,富安中尉が所属していた筑波海軍航空隊のあった友部町で開催する運びとなりました。
この小さな破片から,わたしたちは歴史の重み,人命の尊さを痛感いたし,平和への願いをこめて,生命の大切さのメッセージとして,この展示会を開催いたします。」
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特別展パンフレット(2003年8月)
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富安機の破片。ノーマン氏から返還
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【海外誌にも掲載】
U.S.NAVAL INSTITUTE(USNI)発行の『NAVAL HISTORY』誌2008年4月号には,「Who Knocked the Enterprise Out of the War?」と題し,8ページにわたる詳細な記事 を掲載している。菅原完氏が寄稿したものである。エンタープライズはアメリカ海軍の象徴的空母であり,数々の戦歴を残してきたにもかかわらず,富安中尉の攻撃による大破 で,戦列を離れたばかりか,3ヵ月後の8月15日,第二次世界大戦の全戦線での戦闘終結により,1947年の退役,1960年5月の解体まで二度と戦闘に参加することがなかった。ちな みに世界初の原子力空母となったCVN65に,Big-Eの愛称と共にエンタープライズの名は受け継がれている。 そのこともあってか,戦後63年を経過した今日でさえ,エンタープライズを大破させた特攻隊員,Real Tomi-Zai,すなわち富安中尉に対する特別なものがあるのではないか。
『NAVAL HISTORY』誌 2008年4月号
【富安俊助中尉の遺書】
父上様
母上様
突然,某方面に出撃を命ぜられ,只今より出発します。
もとよりお国に捧げた身体故,生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
御国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御国の防人として出て行くのです。
私が居らなくなったら淋しいかも知れませんが,大いに張切って元気で暮らしてください。
心配なのは皆様が力を落とすことです。
海軍に入る時に,当然死を覚悟していたのですから,皆様も淋しがることはないと思います。
秀雄には便りを出す予定ですが,家からもよく言ってやって下さい。
近藤中尉が訪ねていく予定故,会ってやって下さい,
では
大いに頑張りますから,その点御安心下さい。 俊助
〔予備学生13期,早稲田大学政治経済学部〕
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富安俊助 海軍中尉
参考文献
『第二次世界大戦における米海軍作戦史 第14巻 Victory in the Paciffic第16章 May days at Okinawa第2節 The Fast Carrier Force 』米海軍中将サミュエル・エリオット・モリソン
『筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊』
『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課から加筆引用