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第五筑波隊 石丸進一少尉 

 石丸進一少尉は、兄と共に職業野球の名古屋軍(中日ドラゴンズの前身)に入っていたことがあるとかで、本田耕一少尉と共によくキャッチボールをしていたが、いよいよ出撃の命令が下り、司令の訓示が済むと同時に、二人で校庭へ飛び出して最後の投球を始めた。「ストライク」今もハッキリとその声は私の耳に残っている。彼らは、十本ストライクを通すと、ミットとグローブを勢いよく投げ出し、「これで思い残すことはない。報道班員、さようならッ」、大きく手を振りながら戦友のあとを追った(山岡荘八『最後の従軍』)。

 石丸少尉は、佐賀商業を卒業し、プロ野球名古屋軍に入団しました。のちに日本大学に学び、第14期飛行予備学生となりました。

 昭和20年5月11日、第五筑波隊の一員として鹿屋基地を発進し、沖縄周辺機動部隊を攻撃し、散華されました。任海軍大尉。プロ野球選手戦没67名のうち、特攻戦没は石丸選手ただ一人でした。彼を悼む多くの人々によって、映画「人間の翼ー最後のキャッチボール」が作られました。なお、東京ドームの入り口に「鎮魂の碑」があり、石丸選手の実兄が「追憶」を刻んでいます。

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​「鎮魂の碑」

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​「人間の翼」ポスター 丸尾穂積氏提供

参考文献 『青春の証 筑波海軍航空隊』友部町教育委員会生涯学習課
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