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第十八金剛隊 丸山隆中尉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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​海軍兵学校入学当時の丸山隆さんと母と姉(丸山忠範氏提供)

丸山中尉の財布に入っていた両親の写真(丸山忠範氏提供)

『CAPE&ISLANDS』1995.12.25

 海兵72期、昭和19年暮れ、鹿屋基地から台湾へ渡り、翌年1月5日、神風特別攻撃隊第18金剛隊員として、マバラカット基地を発進し、ルバング島西方を北上中のルソン上陸輸送船団護衛にあたる護衛空母「マニラ・ベイ」に突入し散華しました。丸山中尉の突入で、15名戦死、51名が負傷しました。マニラ・ベイに乗艦していたランドルフ=バートレット=シニア飛行士官が、丸山中尉の財布を拾得したことを記憶していて、息子のバートレット=ジュニア氏(ケープコットコミュニティカレッジ教授)に話していました。その財布には、両親と思われる写真、友人の名刺、国旗等が入っていました。バートレット=ジュニア氏は、日本の特攻隊に興味と関心をもち、財布の持ち主さがしに乗りだしました。戦後50年以上経って、ようやく鹿屋市にある戦史史料館を訪れ、財布に入っていた名刺から第201海軍航空隊に所属することが分かりました。名刺から友人の一人は、増田脩中尉であることが分かりました。増田中尉も神風特別攻撃隊第15金剛隊員として、12月29日にミンドロ島南方の輸送船団に突入し、戦死していました。バートレット氏の財布の持ち主さがしの模様は、鹿児島テレビで報道され話題になり、ついに石川県七尾市出身の丸山中尉のものと分かりました。バートレット氏は、七尾市の丸山中尉の生家を訪れ、遺族と感激の対面をし、さらに丸山中尉の墓前に焼香されました。

【「神風特攻隊」の謎を解く『CAPE&ISLANDS』1995.12.25】

 1945年1月5日、黒煙がとれると、護衛空母「マニラ・ベイ」の甲板に直撃した神風特攻隊の唯一識別できたのは、亡くなった飛行士の財布だった。その日、勤務についていた飛行士官、ランドルフ=バートレット=シニア氏はフィリピンのマニラ湾沖100マイルを航行中であったが、まだくすぶり続ける残骸の中から無残な思い出の品を手に取った。そのことが50年後2世代を経て、地球の両側に住む2家族を結ぶ話になろうとは知る由もなかった。「マニラ・ベイ」はその日2機の特攻機の目標になり、その内、1機が突入直前に砲弾にあたり、舷側の喫水線近くに落ち、その損害は軽微だった。

 2機の飛行機に爆弾を積み込み、故国のために死を覚悟した2人の若き飛行士の『マニラ・ベイ』攻撃の話は、ランドルフ=バートレット=ジュニア氏が父から聞かされた戦争秘話の一つである。ウェストバーンスティブル市に住むバートレット氏は現在ケープコッドコミュニティ大学の教授の職にある。

 「父は太平洋上の全ての対戦に参戦し」バートレット氏は大学の教官室で語ってくれた。「飛行士として飛ぶか、空母勤務かいずれかであった」、戦争中のこの出来事が特に記憶に残っているのは、1941年12月7日、彼はハワイにいたことにもよる。父は当時海軍中尉で、ハワイに駐留していた。当時彼はまだ6ヶ月で、母も生存していた。

 「飛行編隊がパールハーバーを空襲したとき、家から飛び出した」バートレット氏は語った。「私の寝室の壁が榴散弾にやられ、やむなく引っ越し、1942年4月本国に非難するまで友達と暮らさねばならなかった」。

 しかし、年をとった父が私に語ってくれた話の中で、財布のことは父よりも長生きし、重大な歴史の検証物というだけではなく、彼の心に深く残るものになったのです。その後、海軍大佐で退役した父は1982年に亡くなり、書類や戦争当時の思い出の品が彼に渡された。「攻撃のあった日、父は損傷した部分の指揮を執り、消火活動にあたりました。しかし、飛行士の残したものでは、財布のこと以外何も語ってくれませんでした」、「父は財布を政府に渡し、中身についての情報を求めました」、「その飛行士の父母と思われる男女が写った写真や、何枚かの友人また仲間の飛行士の写真と国旗も保管していました。国旗には日本の文字が書かれていました」。バートレット氏が言うには、「私はその品々を片づけておきました。その中には財布の持ち主についてのものも含まれていましたが、いつかそれが分かる日が来るのではないかと思っていました」、「レイは鹿児島県の国分市へ行きました。そこは神風特攻隊にとって特別大切な場所でした。そこから神風特攻隊が死の使命を受けて飛び立っていったのですから。今はそこには身を犠牲にした若者に捧げる神社や記念碑が建っています」、「毎年夏になると2週間、地元の新聞が神風特攻隊の使命を帯びて飛び立った隊員の家族の消息を尋ねる特集が掲載されます。家族には隊員の情報はまったくありません。ただ、戦死者名簿だけなのです」。それから、去年の夏、レイは日本の女性に恋をし、結婚するという連絡がありました。

 そして、突然「信じられない偶然」と彼が言う出来事が起きたのです。「息子の花嫁の母親が図書館司書で、父親は以前新聞記者をしていました。両親はレイが話した飛行士の財布とその品物の話に関心を持ってくれましたので、式に先立ち、そのコピーしたものを送りました。結婚式出席のために日本に着くと、鹿屋市にある戦史史料館へ行く手配がされていました。そこは特攻隊の訓練基地だったのです」、「まだ、あるんですよ。父親の友人が地元の放送局に勤めていて、私たちの史料館への訪問を撮影し、夜のニュースで放送したいと局員を待機させていたのです」、「史料館は使命を帯びて飛び立った飛行士のフィルムを所蔵しています。また、特攻隊員の名簿また家族の消息、その出身地などもあるのです。そのときは財布の持ち主は特定できませんでした。でも、2人の友人の名前はわかっていましたので、これをきっかけにして、第201海軍航空隊の1人らしいことがわかりました」。

 テレビで放映された後、何も進展はなかった。50年を経過して、両親や2人の友人の写真を識別できないのは当然である。6週間後、義母が1000マイル離れた東京近郊に住む人から、電話を受けた。

「写真に写った男女の名前がわかりました。私がその亡くなった飛行士の甥です」とのことであった。バートレット氏は「私が彼がともかくテレビを見てくれたのだと思いました。しかし、後でわかったのですが、義母が飛行士の両親たちを写したはがき写真を持っていて、それを史料館の記録にある17部隊の13名の家族に送っていたのです。そして、彼の家にも送られていたのです」と話してくれた。

丸山隆さんの従六位、勲五等旭日章叙勲を伝える新聞(丸山忠範氏提供)

「甥は叔父についての情報がわかって涙をながして喜んでくれました。届いた時期が特に意味があったのです。その日は50年後のお盆の日にあたり、先祖の霊が家庭に戻り、家族でお祝いをします。その時、その写真が届いたのです」、「1945年1月5日、『マニラ・ベイ』を攻撃し、その命を犠牲にした若者は、丸山隆さんという名前だったのです。家族は彼の死の事情は何も知りませんでした。遺品は、彼が描き、家に送った絵と手紙だけだったのです。新聞に載った簡単な広告が彼の死を知らせてくれたのです」。

 バートレット氏は今父の残した戦争中の思い出の品に加えて、こうした品物のコピーしたものを持っています。「それはすばらしい歴史の一こまであり、戦争を身近なものとしてくれます。学生も私がその話をしたとき、同じような捉え方をしてくれたのではないかと思います。それは歴史としての戦争を語っているだけではなく、戦争を生きた人々を語ってくれているのです」、「テレビもその話を放映し、また甥もその中で語っています。甥は私たちとつきあう中でアメリカ人に対する見方が変わり、人間として尊敬するようになりました」。

 バートレット氏の心の旅はまだ終わったわけではない。彼は海軍に、機会があれば、財布がまだ保管されているのか、そして、できれば亡くなった飛行士の家族に返したいと思っている。また国に尽くし、進んで訓練をうけて、最後の死への飛行に飛び立っていった5,000名を越える若者について、もっと知りたいと思っている。

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2機目の零戦が、マニラ・ベイの右舷側の海面で爆発し、火の玉となった瞬間。零戦が主翼の先端をレーダーアンテナに引っかけた部分から黒煙がたなびいている。ナトマ・ベイの飛行甲板より撮影(『写真集カミカゼ』より)

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零戦が体当たりし貫通した飛行甲板の穴、消火隊が懸命に放水している。下部の格納庫では、駐機していた2機のガソリンに引火、火災が発生していた。マニラ・ベイは24時間以内に限定的な航空作戦が可能となったが、完全に修理が終わったのは2日後だった。人的損害は22名、負傷56名。

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2機目の零戦が、右舷側の桁端を直撃し、海面に機体を粉砕し爆発した。その瞬間をスチーマー・ベイより撮影。船体の外板に破片が飛び散って損傷があった。海面の水しぶきは破片の落下によるもの。右手の飛行機は戦闘空中警戒の戦闘機である。

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MANILA BAY CVE-61

昭和20年1月5日、特攻機はルソン島攻略作戦を支援するマニラ・ベイに南シナ海で襲いかかった。特攻機は対空砲火の中を低空で突進し、直前で高度をとると急降下をはじめ、目標に肉薄した。

『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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