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【星野政巳中尉の遺書】

 父上様

 母上様

 長い間お世話になりました。

 今度戦地へ参ることになりました。

 私の同期の者も懸命に奮斗して居ります。

 愈々お役に立つ事になり喜んで居ます。

 父上母上のお陰何等心配はございません。

 工藤先生三ツ井先生西澤先生荻原先生其他諸先生によろしくお願い申し上げます。国民学校の皆様より

沢山御慰問のお手紙を戴きました。

 又町内の皆様にも厚くお礼を申し上げて下さい。

 父上

 母上

 いつまでも御健勝の程お祈り申して居ります。

 昭和19年11月21日

              政巳

 父上様

 母上様

 

 晴勇チャン、兄は兄として何等なし得なかったが許して呉れ。

 お前も今まで通り立派に父上母上につくしてくれ。

 何も今迄通りの気持ちでやってくれ。後は父上母上の申される通り進んでくれ。

 兄は喜んで往く。少しでも悲しんだりしてはならぬ。

 昭和19年11月21日

              政巳

 晴勇殿

 

 和子

 豊子

 二人共良くお手伝いしてくれるので兄は安心し切って居る。心よりお礼を申す。兄の分まで父上母上に孝養をお願ひする。同時にお前達の分迄必ず働き抜き喜んでもらはう。

 姉弟妹皆今の気持ちで進んでくれ。

 昭和19年11月21日

              兄より 

 和子 殿

 豊子 殿

 

 工場の皆様

 皆様のお陰で私は元気一杯であります。有難たうございます。

              政巳

 工場の皆様

 

 「きわ」さんをお願ひします。

              政巳

  父上様

 母上様

 和子殿

 

【父君よりの最期の手紙(抄)】

◎種々書いた事ながら周囲の情勢に依り、例えば特別攻撃命令の下りたる場合の如きは莞爾としてお受けし、大君のお為に又お国の為に憎き敵米英の航空母艦の急所へ突入体当たり、天晴の手柄を立てて呉れ。

◎お前の過去を顧みれば誠に幸運児でありし事よ。何事も想ひどうりになり今日の地位を得たるは満足すべきである。鴻恩と満足とに感謝しつつ大業を完遂して呉れ。

◎その場合は父も母も何も言はぬ。只々お前の武勲を褒めるであらう。そして永遠に眠る平和の海へ花束を捧げに行くであらう。尚又、晴勇も敵米英撃滅へ志願させ、必ず敵を取るであらう。

◎今朝も晴れて霊峰富士の姿は白衣を着けて、崇高そのものである。お前の愛機、南へ飛ぶの日を祝福して居るであらう・・・・・・

   昭和19年11月23日

              父母より

   征途多き幸多かれと祈る

    政巳殿へ

 

 晴勇殿

 豊子殿

 父上様

 母上様

 御尊書有難く拝読させて戴きました。

 私は申し上げる如き事はさらに御座いません。

 和子をはじめ晴勇豊子何等私等にお構いひなくよろしくお願い申し上げます。

 御尊書中「最後のもの」の御教訓は只々、もったいなく嬉し涙で一杯でございます。

 御教訓に従ひ努めを果たします。何卒御安心下さい。

 御体には十分御注意下さいます様御願ひ申し上げます。

 昭和19年11月25日

 

   君が為何か惜しまん若桜

     千たび生れて敵を滅せん

         海軍中尉 星野政巳

 

 今より攻撃に出発致します。何も心に残る処なく元気であります。部下の者も皆元気であります。

 当地にて隣町(小諸)の依田君と会ひましたのでお願ひ致しました。

 皆様何卒お元気で。

               政巳

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星野政巳中尉(尾台豊子氏提供)

愛機を磨く星野中尉(尾台豊子氏提供)

​左から2人目星野中尉(尾台豊子氏提供)

筑波空に咲いた若桜(尾台豊子氏提供)

第十四金剛隊隊長 星野政巳中尉

 

 武蔵高等工業学校を卒業し、第13期飛行予備学生、昭和19年12月28日、神風特別攻撃隊第14金剛隊長として、フィリピンのセブ基地を発進し、シキホール島東方輸送船団のうち「ウィリアム・シャロン」及び「ジョン・バーク」に大塚明上飛曹、川端静夫一飛曹とともに突入し、散華しました。任海軍少佐。

【依田公一中尉の手紙】

長野県北佐久郡岩村田町花園町

   星野一次郎様

 星野中尉ガ「セブ」ニ来ラレタノハ去年ノ12月26日ダッタ。零式戦斗機8機ヲヒキツレテ来ラレタ。星野君ハ私ノ同期生トハ思ヘヌホド落付イタ温厚ナ人格者ダッタ。しかし温厚ナ中ニ、ナニモノヲモ恐レヌ物凄イ斗志ノアル人デアッタ。

 28日ノ日ニ、敵ノ大輸送船団ガ来テ愈々攻撃ニ行クトキ、司令ニ、ニコニコト笑ヒナガラ届ケラレテ出発シテユカレタ。全クソノ豪胆サニハ驚カサレタ。

 最后ノ言葉デアッタカ、「家ノ父ト母ニヨロシク頼ム」と言ッテ行カレタコトガ、今アリアリト思ヒダサレル。

 出発シテカラ30分位タッタ頃デアッタ(丁度30分程デミンダナオ海ヲ西航シテイル敵ノ大船団ニ到達スル。コノ時ノ大船団ハ、巡洋艦5,6隻、駆逐艦7隻、大型輸送船30隻、舟艇40隻ト云フ物凄イモノデアル)「セブ」カラ、ミンダナオ海マデ100浬アルノデ、飛行機ナラ20分丁度到達スル頃、浅間山ノ噴火ノ如キ煙ガムクムクト上リ、地震ノ如キ音ガシテ我々ヲ驚カセタ。コレガ星野君達3機ノ体当リニ依ッテ撃沈シタ敵ノ断末魔デアッタコトガ、戦果確認ノ飛行機ニ依ッテ判ッタ。

 「セブ」カラ望見シテ、図ノ様ナ三本ノ煙ガ上ガッタ。煙ト云フヨリモ噴火ノ煙ト云ッタ方ガ良イ。オソラク輸送船ハ弾薬ヲ積ンデ居ッタモノダラウト推定サレル。将ニ大戦果ダ。

 私モソノ夜ノ攻撃ニ行ッタノデアルガ、オメオメ現在生キ居ルノガ申訳ナク、残念ノ気持デ一杯デアル。今モ、私ニ「さくら」ノ煙草ヲ呉レテ行キ、ニコニコ笑ッテ、ユカレタ姿ガ思ヒダサレル。

呉局気付川畑隊士官室

                      依田公一

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【故海軍少佐星野政巳君之霊を弔ふの辞】

                      同期生元海軍中尉依田公一

 星野君があのフィリピンのセブ島より距ること150 浬のミンダナオ海で立派な戦死をされてから2年近くも経ってしまった今日、僕は当時のことを思ひ返して誠に感慨無量なるものがある。

 君の最后の有様をまの辺りにみてその夜激戦に君が後をと覚悟して戦った僕が今更君に何と申し上げてよいか・・・・・・地下に居られる君が一ばんよく判ってくれるものと思ふ。

 昭和19年12月の20日すぎのある日、神中尉など一緒に内地から比島の激戦場へと飛んできた君と会ったのは同じ故郷より遙かに距ること2,500浬もあるあの凸凹多い、小さなセブの海軍飛行場であった。12月と云へば僕等の郷里佐久の高原では、相当の寒さなのにセブではカーキ色の防暑服と飛行服だけでよかった。夜なども小高い丘の上にあった洋館だての士官宿舎では余りの暑さでねむれないので、一丁ばかり離れている海岸寄りの飛行場戦斗指揮所でにぶく光る南十字星を眺めた当時、君が心の中で何を考えていたか僕には何だかわかる様な気がする。でも僕はここに今それを書き連ねて君のお父さんやお母さんに申し上げる様な気持ちにはなれない。

 屋根のない戦斗指揮所の下で初めて名乗り会ひ、同じ佐久のしかも隣町同士の友と判った時の驚きは今でも忘れられない。たった2日か3日の交わりではあったが、兄弟より以上の近しさを覚えたものだ。

 僕は28日の出発の間際には、君が飛行服のズボンのポケットから桜(タバコ)を三箱とりだして一本だけ吸ひ、残りを僕の前に差し出し、「吸へよ、この中に鉛筆書きで一寸かいたものがある、もし生きていたら両親にやってくれや」(わら紙にみとめた遺書)と云ひ残した言葉などと一緒に君のライフジャケットを身につけた、たくましい姿が思ひ出されてきて全くたまらない気持ちになる。

 それから出発の時、25番(250キロ爆弾)だけではもの足りないから6番をもう一発つけてくれと云ったことなど(零式戦斗機では無理な飛行だとは君が一番よく知りながらも)。

 又出発の直前に君の飛行機の翼の上で君と握り会った翼の上の握手・・・・・・追憶はつきない。

 今日、君のお父さんやお母さんをみるとき人情として僕は実につらい。

 しかし僕はつくづくと人生の無常と流転の世界を憶ふ、人生70は古来稀なりとは云ふが70才まで生きのびた処が大自然の永遠の姿に比するとき、全くそれは一瞬にしかすぎない。しかし君があの瞬間こそプラトンの云ふイデアの世界又はゲーテの云ふ絶対の刹那をキャッチしてゆかれたのではないかと思ふのだ。これを考へるとき、死して死なない君の永遠の姿を僕は発見する。

 人情の弱さでこれ以上云ふことはできないが、ただ君が地下でお父さんお母さんはじめお家の人達の身の上をよく守って貰ひ度いと念願する。

 今日お父さんより当時の日記を書いてくれと依頼されたのですが、只日記だけではすまされないので、つい思ひのままを書きつけたのですが、どうか寛恕して下さい。

 

  日  記

昭和19年12月28日

 本日ハ実ニ記念スベキノ日也。午前ニハ隣町ノ星野政巳中尉ヲ零戦隊特攻指揮官トシテ送リ遂ニ流星ノ如ク体当リヲナス。輸送船三隻沈没ノ大戦果ヲ挙グ。当時ノ状況

 体当リノ瞬間150浬位ハナレテイル「セブ」戦斗指揮所マデ地響キノ如キモノガ感ジラレタル程ナリ。輸送船ハ弾薬搭載ノ大型輸送船ナルノ如シ、爆煙状況、浅間山ノ噴煙ノ如シ。

日記そのままを書き添えて君を弔ふの辞とします。

『筑波海軍航空隊 青春の証』友部町教育委員会生涯学習課

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